【大久保利通】
明治維新後、旧武士たちは士族と呼ばれていたが、生活は苦しく、明治の新時代に不満を持ち、反乱が相次ぐなど、士族の救済は急務となっていた。
当時の政府要人だった大久保利通は、世界との差を実感し、国の未来には殖産興業と士族授産が必要と考え、産業を興し、士族救済の政策を打ち出していた。
大久保は明治9年、明治天皇の東北巡幸に先んじて郡山を訪れた時、後に「安積開拓の父」と言われる中條政恒が、福島県と開成社による大槻原開拓事業の成功と、国営による安積開拓の必要性を力説した。
帰京した大久保は内務省から調査官を東北に派遣し、大規模な開拓に適する原野の視察を命じた。その結果、安積の原野が適地であると報告された。大久保の進言で、明治11年3月、国営開拓第一号事業として、国で「安積開拓」の予算が計上された。猪苗代湖の水を引くことに加え、士族の移住計画を内定した。
しかし大久保利通は、暗殺され、この世を去った。
生前の大久保に会っていた当時の福島県令・山吉盛典は、大久保の遺言として安積疏水開削の効用を記し、関係閣僚に送った。
大久保の死後、一時は政府の安積開拓への関心は薄れたが、中條の熱意で、大久保の遺志は、次の内務卿・伊藤博文らに引き継がれた。