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安積開拓は明治初期、全国の9藩から士族たちが郡山に移住し、安積原野を開拓した。
郡山商工会議所青年部が平成5年(1993)から平成7年(1995)にかけて 開拓した場所を示す[「入植者の碑」を市内10箇所に設置し、開拓者魂と足跡を後世に伝えている。
大槻原【旧二本松藩士族 】
明治6年3月、福島県令の安場保和が二本松に出張し、安積開拓への移住を勧奨した。大槻原に28戸、対面原に11戸が移住した。割り当てられた土地が久留米藩士族などの半分に過ぎなかったという。
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大蔵壇原【旧久留米藩士族】
明治11年に旧久留米藩士の森尾茂助ら士族が18日間をかけて郡山に到着。久留米開墾社を設立し、大蔵壇原を開墾地に、40戸が移住し、80町歩を開墾。郷里の水天宮の御分霊を奉祀して心の拠り所とした。現在も「久留米水天宮」として受け継がれている。
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廣谷原【旧土佐藩士族】
明治13年に旧土佐藩士族が71戸が入植した。多田野山田原に20戸、赤坂に15戸が政府勧奨で入植した。廣谷原に「豊受神社」、山田原に「八菅神社」を設け、心の拠り所にした。
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大槻南原【旧会津藩士族】
明治政府の士族授産事業の呼び掛けに応じ、三森峠を越えて、南原に13戸、湯ノ原に1戸、駒屋北原に3戸、塩ノ原の15戸が入植した。当時は、朝敵と言われ、厳しい境遇の中で労苦を強いられたが、困難を克服し、原野を美田に導いた。
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廣谷原【旧鳥取藩士族】
明治政府の士族授産事業の呼び掛けに応じ、三森峠を越えて、南原に13戸、湯ノ原に1戸、駒屋北原に3戸、塩ノ原の15戸が入植した。当時は、朝敵と言われ、厳しい境遇の中で労苦を強いられたが、困難を克服し、原野を美田に導いた。


対面原【旧棚倉藩士族】
明治13年に「棚倉開拓社」が28戸の移住許可を受け、」実際には26戸が入植した。 明治17年には、棚倉藩、会津藩、二本松藩の士族が協議し、「三柱神社」を奉祀し、心のよりどころにした。

牛庭原【旧松山藩士族】
松山藩士族の愛媛開墾社は明治15年に15戸が入植し、後の入植者を加えて総数で18戸になった。安積の地で初めての種甘藷(サツマイモ)の栽培を成功させるなど、農業改良、栽培方法が優れていた。

四十坦原【旧米沢藩士族】
米沢藩士族13戸が明治16年に入植した。安積開拓の父と呼ばれる中條政恒、郡山農学校初代校長の立岩一郎、いち早く有機農法を取り入れた牧畜に励んだ石井貞廉は米沢藩士族。
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対面原(北久留米)【旧久留米藩士族】
明治13年に現在の喜久田町、日和田町にまたがる対面原に移住し、寒冷不毛の地だった原野の開墾事業に取り組んだ。水天宮、金刀比羅神社を祀り、心のよりどころにした。
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